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『神様のボート』江國香織
- 2008/07/23(水) 19:04:51
別れの物語です。
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かつて出会ったあるひとに、
「どこにいても、必ず君を見つけ出す」と言われた言葉を疑わず、
彼との娘、草子を連れて旅を続ける葉子。
「あのひと以外のものに馴染むわけにはいかない」
そうしたら、もうあのひとに会えない気がするから。
現実には到底ありそうもない話です。
作品解説でも筆者あとがきでも言われていますが、
葉子は静かな狂気にとり憑かれています。
しかしこれは、旅をする狂女の物語ではありません。
どこにでもある、母と子の別離の物語です。
「あのひと以外のものをすべて失う」為に、旅を続ける母。
それに付き従う草子にとっては、出会う物も人もすべてが失う為に存在します。
転校ばかりの自分を、スキー教室は危ないからと
参加を断固拒否する母を、草子は普通ではないことに早くから気付いています。
それでも小学生のうちは、転校を受け入れ、スキー教室も欠席するのです。
幼い頃は、お母さんより大切なものなんて存在しないから。
草子が小学校最後の年、葉子は何度目かの引越しを切り出します。
―どうして箱に入れなきゃいけないの?どうして引越しばかりなの?
ここでパパを待ってちゃいけないの?
―言ったでしょ。ママも草子も旅がらすなのよって。
自分でも、説得力のないことがわかった。どうして旅がらすなの?
草子の目がそう言っていた。もう旅はしたくない。草子の身体じゅうがそう言っていた。
―どこかに馴染んでしまったら、もうあのひとに会えないような気がするの。
仕方なく、正直に私は言った。
―馴染まなければ、パパに会えるの?ママは本気でそう思ってるの?
おどろいた。
―勿論よ。
私は言ったけど、草子が信じていないことがわかった。
―どうして会えないと思うの?
私は煙草に火をつけた。指がふるえていた。
―わかんない。
ひどく小さな声だった。
やがて草子は我慢しきれずにしゃくりあげ、
―ごめんなさい。
と言った。
―会えないと思うなんて言って、ごめんなさい。
その瞬間、私は胸がつぶれた。
小学校1年生くらいの時、母と交換日記をしていたことがありました。
母はフルタイムで働いていて、まだ赤ん坊だった妹もいて、
私との時間を十分に取れないことを気にかけた母が、提案してくれたのだと思います。
そんなに長期間やっていたわけでもなく、
自分がどんなことを書いていたのか、すっかり忘れてしまいましたが
交換日記第一日目に母が書いた一文を今でも鮮明に覚えています。
「いつかあなたも、お母さんとじゃなくて、仲良しのお友達と
交換日記をするようになるのかな?」
怒りとも悲しみともつかない感情に、胸がくしゃっとなりました。
どうしてそんなことを言うの?
お母さんこそ、よその家のお母さんみたいにずっと家にいてくれないくせに。
妹ばっかりかまって、私の話よりお祖母ちゃんの話ばっかり聞いて、
お母さんには私のほかにも好きなものがいっぱいあるくせに。
私は、お母さんが一番好きなのに。お母さんより大切なものなんか、
これからも絶対出てこないのに。
私は、お母さんが私より先に年を取って、私を置いていつかいなくなっちゃうかもって
考えるだけでも、泣きそうになるのに…
あの時、言葉にはできなかったけど私は確かにこう思っていました。
母を独り占めできないことを不満に思っている私に対して、
私が母を裏切るかもしれないと言うなんて、
しかもそれを諦めて受け入れているかのように私に言うなんて、ひどいと。
あの頃の私にはわからなかったのです。
自分がこれから、どれだけ多くの人と出会うかを。
母がこれまでに、どれだけの出会いと別れを経験してきたかを。
草子がしゃくりあげたのは、決して母が嫌いになったわけではないのに
母が傷つくとわかっている言葉をぶつけずにいられない時が訪れたことが、苦しいから。
葉子の胸がつぶれたのは、娘と自分の歯車が、
違う回転数で動き出した音を、どこかで聞いたから。
愛する人の隣で自分ひとり変わらなければならないことは、とてもかなしい。
私を愛してくれる人は、例えどんなに寂しくても、
変わることを笑って許してくれるから。
愛する人が隣で変わっていくのを見るのも、おなじくらいかなしい。
愛する人が少しずつ私のいない世界を手に入れていくのに、
そこに一緒には行けないから。
母子の歯車が違う回転で回りだしてからさらに三年後、
中学三年になった草子はついに、自分の世界を母から切り離します。
慈しみながら、苦しみながら、もがきながら、哀悼を捧げながら。
―ごめんなさい。
小さな声で、苦しそうに草子は言った。
―なにをあやまるの?
草子は泣きじゃくっていた。泣きじゃくって、泣きやもうと洟をかみ、
また泣きじゃくった。そうしてそれから湿った声で、
―ママの世界にずっと住んでいられなくて。
と、言ったのだった。
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